目次へ戻る

無名相手でもパクリも卑怯です

2008107

宇佐美 保

 

 先の拙文《「軍事ケインズ主義」と「道路ケインズ主義」(3)(「ガソリン税」は「環境税」)》の最後は、次の(補足:2)を書き“この件に関しては別文を書こうと存じております”としました。

 

 

『日本史はこんなに面白い 半籐一利編著(文芸春秋2008730日 第1刷)』は、「平成1819にみずほ総合研究所『Fole』誌上に掲載された対談に加筆、修正したもの」とのことですが、その本の中で、中西進氏(奈良県立万葉文化館館長)は、聖徳太子に関しての次のように述べています。

 

太子は当時、日本にあったアニミズム的な宗教を、新しく入ってきた仏教に鞍替えさせようとしていた。そして四天王寺をあの場所に建てることで、見事にそれらを習合してみせた。ついでにいうと、隋の煬帝へあてた国書のなかで相手を「日没するところの天子」と呼んだのも、太陽の沈む西方浄土信仰にもとづいて敬意を示した表現だった

 

 

しかし、私は拙文《「日没する処の天子」とは?2003年8月9日》に於いて、同様な趣旨を展開しています。

(尚、平成1819は、20062007年)

 

 ですから、ここではこの続きを書かせて頂こうと存じます。

先の拙文《「日没する処の天子」とは?2003年8月9日》の一部は下記の通りです。

 

 此処で注目して欲しいのは“海西の菩薩天子”の文言です。

この“海西の菩薩天子”の文言から、時代は下って平安時代の西方浄土への憧れを想い起こすのです

聖徳太子の時代に既に「西方浄土」思想があったかは私には不明です。

しかし、太子が建立し、又、太子亡き後、消失し再建された法隆寺の金堂の壁画(これ又、1949年焼損)には、阿弥陀浄土図が描かれているのです。

従って、太子は、落日の中、金色に輝く菩薩の世界、阿弥陀如来の浄土と、随(中国)を重ね合わせ、随の皇帝を海西の菩薩天子と崇め太子自らを朝日が昇って間もない“現世で修行中の声聞”と謙った表現をされたのではないでしょうか?

 そして、その慈悲深き“海西の菩薩天子”のもとへ小野妹子を遣わし朝貢し、仏法の教えを学ぼうとされたのではないでしょうか?

 

 しかしこのような西方浄土思想を別としましても、「東方の阿醗仏の浄土に対して,西方の阿弥陀仏の浄土としての極楽」との「西と東の言葉の上での対比的な表現」だったかもしれませんが、“和をもって尊し”と説かれる太子が、これから教えを請う相手側へ「日没衰退に向かう国の天子」等との表現をされるとは私にはとても思えないのです。

 

 

 このように、私は、いわゆる従来の「隋を日没衰退に向かう国」、「日本を日の出の勢いで発展してゆく国」的な解釈を破棄しました。

この文を私のホームページに載せたのが、200389日です。

 

 一方、先の中西進氏(奈良県立万葉文化館館長)の談話は、2008730日発行の書籍に掲載されていました。

しかし、私のホームページ(200389)以前に、中西氏は同様なお考えに到って居られたのかも分かりません。

そこで、中西氏の著作『中西進と歩く万葉の大和路』(潟Eェッジ 2005年3月3日第2刷発行)を見ますと次のような記述を目にします。

 

 

 それから七年のちの六〇七年、太子は再び隋に使者を送った。そのとき持たせた国書のなかで、太子はつぎのように言った。

「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。志なきや、云々」

 隋の楊帝がこれを悦ばなかったことは有名だが、わずか七年のあいだに、一種の原始的な認識から、国家外交のようなレベルに変わっていることが、わたしには驚きである。そこにはすごい飛躍があって、はじめて「国」というかたちが伺える。この時代をリードしたのが、ほかならぬ聖徳太子であった。

・・・

 

 

 このように、

私のホームページ掲載日(200389)より後2005年3月3日に於いても
中西氏は、聖徳太子の国書を従来説で解釈している為
隋の楊帝がこれを悦ばなかったことは有名」と書き記したままです。

若し、中西氏が、この時点(2005年3月3日)で、文頭で引用しましたように「隋の煬帝へあてた国書のなかで相手を「日没するところの天子」と呼んだのも、太陽の沈む西方浄土信仰にもとづいて敬意を示した表現だった」の境地に立たれていたら、聖徳太子の真意を「隋の楊帝」が誤解されていたと記述してしかるべきです。

でも、その旨が記されていない事は、

中西氏はこの時点(2005年3月3日)までは従来説に囚われておられ
私のホームページ掲載日(
200389)の後、20062007年の前に
従来説を破棄なさったと推測されます。

 

 と申しましても、中西氏が私のホームページから直接或いは間接的におパクリなさったかどうかは分かりません。

中西氏が独自に到達した思考であろうと信じたい気持ちです。

(或いは、私のホームページでの発表前に、別の方が公表されていたのかもしれません。
又、以上の記述は、中西氏よりも私の方が着想が早かったのではないかとの自分勝手な自慢話かもしれません)

 

 

 

しかし、私には、はっきりとパクリに遭遇した経験があります。

 

19871011日にNHKテレビで放送された「巨大古墳の謎」に於いて学者の方々が「古墳」について解説されていました。

でも、その話の中に色々と疑問を感じましたので、NHKに手紙(住所氏名を明記して)を書き送りました。

(その手紙と、疑問点などは文末に掲げさせて頂きます)

 

 

 そして、その私の指摘が明らかにパクリにあった例を先ず掲げさせて頂きます。

 

椚国男氏は“前方後円墳は、全長の8分の1を単位に設計”、即ち、「8分の1単位設計法」を力説されておられました。

(「8分の1単位設計法」に関する本も書かれておられるとのことでした)

 

そこで、この件に関しては、次のような疑問をNHKに書き送りました。

(但し、この疑問点の前半部分に関しては、当時の放送内容を補足しないと意味不明に陥ってしまいますので(と申しましても、今でははっきり覚えていないのですが)、記憶の絲を辿りながら補足しますと、椚氏は、“古墳を構築する前に、設計図を布に書く”と説明されていたのだと思います)

 

 

2。“前方後円墳は全長の8分の1を単位に設計”との『椚氏説』

 設計図を書く際、紙ならいざ知らず、布では、8分の1の折り目が良く見えるでしょうか? 設計図を書くとしたら、布より板に書いたのではないでしょうか?

 又、布に書いたとしても、8等分作業をしたら、全長は、布一杯になって、書きにくいのではないでしょうか?

 布に折り目を作ったのなら、斜めの折り目も利用したのでは、なにしろ、正方形の布の寸法は、折紙のように、斜めに折る事で容易に得られるのですから。

 

それに、建築物ならいざ知らず、古墳のような、立体的な構築物は、平面図だけで、作業出来たでしょうか?

幾何学的知識なくて、丸い山を作った後に、平面寸法(全長の8分の1単位の寸法)をいかにして、その斜面に反映することが出来たのでしょうか?

斜面寸法には、8分の1の基準単位を、cosθで割ってやらなくてはならないし、あるいは、この寸法を図面より求めるなら、当然、平面図の他に、立面図を書いているのでは?

だとしたら、立面図に現れる高さ方向の寸法にも、全長の8分の1の基準単位が反映されているのでは?

全長の8分の1が基準単位というより。『全長を基準として、その寸法を、「2分の1」、更に「2分の1」としていっただけ。』では、ないでしょうか。

2分の1」の「2分の1」の「2分の1」で、「8分の1」なのですし、

この方法なら、平面だろうが、斜面だろうと、全長の8分の1の長さを、幾何学を知らずにも、古墳の寸法に反映することが出来ます。

(直角三角形の斜辺の長さは、底辺の長さに比例するのですから)

 “数”に信仰的等の意味が無ければ、半分に、又、半分にという操作が、一番自然で簡単とも思えるのですが


参考図

 

 

 このように、私は、椚氏の「8分の1単位設計法」を否定して、「半分に、又、半分にという操作」を推理したのでした。

それに対して、椚氏からは何の回答も頂く事はありませんでしたが、後日、朝日新聞(1993217日)『椚国男さん(93多摩に生きる:64)』の記述を見て驚きました。

その驚かされた部分を次に抜粋させて頂きます。

 

 

 古代の人は原始的かと言うとさにあらず、意外なほどの技術がある。支配階級はより高度の土木技術を持っていたに違いないと、日本の代表的な前方後円墳を調べたところ、二分法によるすぐれた設計技法が用いられていることがわかりました

 

 

 

あれほど「8分の1単位設計法」を力説されておられた椚氏が
あっさりと私の手紙で指摘した「二分法」を唱えて居られるのです。

(一言ぐらいは連絡して欲しかったと存じます。

それとも、NHKが私の手紙を椚氏に提示されていなかったのでしょうか?
又、私以外の方からも「二分法」に関する提案が椚氏に届けられていたのでしょうか?
椚氏が独自で考えを改めたのかもしれませんが?)

 

 

 次は、古墳問題に関する別の指摘点を掲げさせて頂きます。

 

 

NHK 19871011日放送の巨大古墳の謎を見て

 19871012

        宇佐美 保

1。箸墓古墳(日本最初の前方後円古墳?)

 ハシハカの意味は、『箸が云々‥』と言うより、バク・ビョング・シク氏の本、“日本語の悲劇”(情報センター出版局 発行)を、参照しますと、

 『”ハ”は”辺、端、場所”などを表す基語。』と、

“シ”は、と言いますと、“シ”は、“ヒ”より変化して来ると、“ヒ”は、“日”、“太陽”でしょうか。

 即ち、“ハシハカ”とは、”辺の部分が、あるいは、端の部分が太陽に向かつている、あるいは、面している墓”あるいは、“太陽に向かっている側に方形を設けた墓”と呼び、(あるいは、又、“ハ”は、”方形”、”シ”すなわち“ヒ”は“太陽、すなわち“円”、よって、“前方後円”)

 従来の、“円形”の墓と区別したのではないでしょうか?

 いずれにしても、朝鮮語(韓国語)より、言葉の由来を探るべきでは?

 (“墓”、“ハカ”の語源は?)

 バク・ピョング・シク氏の御解釈を、お聞かせ戴きたいなあと思います。

 

 

2。“前方後円墳は全長の8分の1を単位に設計”との『椚氏説』

(この件は、先に掲げさせて頂きました)

 

3。北枕での埋葬(大阪大助教授都出比呂志氏の説)

 “中国では、死者は、北枕なので・・・

と言うより、少なくも、太陽を信仰しているのなら、太陽に向かって、(顔を太陽に、すなわち、南に向けて)身を横たえるのが、自然では?(あたかも、日光浴をする時のように

その結果として、頭の向きが北になっているということでは?

(方位の明らかに示された古墳は、方形部が北を向いている一つだけでしたが、他の古墳は、どういう向きなのでしょうか?

 この時代は、方位は意味が無かったのか、有ったのかと、気になります。)

 

 

 この件を少し補足させていただきます。

北枕」との言葉の「」から、私達はどうしても夜「」を用いて寝る事を連想してしまいます。

そして、私達が夜寝る時「北枕」をすると、(昔の家では、今の建築物よりは格別に機密性に劣りますから)北風の隙間風が頭部に(又、首筋部に)吹き込んできます。

従って、私達の日常生活では「北枕」は避忌されます。

この面から、従来は「北枕」は「死者の枕」と決め付けていたのかと存じます。

 

 しかし、

死者の埋葬は夜ではなく、昼間に行われたはずです。

そうしますと、先に記してありますように“太陽に向かって、
顔を太陽に、すなわち、南に向けて)身を横たえるのが、自然では?
(あたかも、日光浴をする時のように

その結果として、頭の向きが北北枕)になっているということでは?”

という事になる筈です。
従いまして、

死者を「北枕」で埋葬したのではなく、
死者を「南に向け」埋葬した

と表記すべきと存じます

 

 (墓の中には、夜となっても「北風」は吹き込んでこないでしょうから)

 

4。鶏の副葬品(同志社大教授森浩一氏説)

 森浩一教授の説では、『中国では、鶏の他に、豚、犬、馬などの土器の副葬品があるが、日本では、鶏だけなのは、そのころ、鶏が中国から渡ってきて豚、犬等より珍しかったからでは?』との事ですが、私の母は、『小さい時、中国で見た葬式の行列では、死者のお棺の上に足を結わかれた鶏が乗っていた。』と言いました。

 若しも中国からの影響が有ったとしても、母の言葉のように、鶏だけに他の動物とは別の意味が有ったのではないでしょうか?

 

 

5。鶏の土器が、円と方形の境に多く埋葬されている。

 奈良大教授水野正好氏は、『円墳部で、真暗の中で夜の儀式をし、朝、その鶏の土器の部分を通り、朝日を浴びながち、方形部で即位の儀式をした。』との説ですが、

 昔の人は、真暗闇が怖くなかったのでしょうか?

かがり火をたかなかったのでしょうか?(特殊器台が、かがり火に使われたのでしょうか?その証拠は残っているのでしょうか?)

というより、円形の墓部は、夜の世界(死者の世界)

方形部は、昼間の世界(この世、あるいは、この世との境、あるいは、死後に生返る世界?)との境界は、当然、“朝”なのであるから、その(朝の)象徴である、“鶏”の土器を、円と方形の境に埋めたのではないでしょうか?

(それに。朝日を浴びて、儀式を執行なうなら、方形部が、東を向いているとか、太陽の方向との関連性が認められるのでは?)

 

 

 そして、以上の指摘点をNHKに送付した際に、次の手紙を添えました。

 

 

 

拝啓

 

先日、TVで放送された番組、”巨大古墳の謎”’を見て、色々と疑問を持ってしまいました。

その疑問を、別紙に綴ってみました。

勿論、この疑念を、それぞれの先生方にぶっつけて下さいとは、申しません。

只、不思議だなと思ったのです。

 

それにしても、NHKの方々が、何の疑念も持たず、先生方の御意見を、放送されるのが、不思議だなと思いました。

(そして、“これらの疑念を書いたとて、何になるのかな?”と思うと、空しくなり、何日も、書いたままで。放ってありました、又、放って置いても、尚、しようがないので、送らせて戴きました。お忙しいのに、すみません。)

『“万葉の詩人。柿本人磨”の詩が、朝鮮語でも意味を持つ。』と、何か月か前、放送され、最近再放送されたのですから、古代については、朝鮮の影響をもっと突っ込んで戴きたかったな、と思いました。

でも、その放送では、バク・ピョング・シク氏の話、説の紹介が全く無かったようでしたが、(あるいは、僕が気が付かなかったのでしょうか?)

何故なのでしょうか?

TVに出演されてたグループの方々の、仕事に、バク氏の仕事が影響を与えていたのでは?

若しそうなのに、バク氏の業績無視してるのでしたら、“ああ、日本は、いつまでも、他人の独創に敬意を払わないのだなあ。”と、日頃の自分を反省すると共に、悲しくなりました。

敬具

19871017

宇佐美 保

 

 

 この手紙の中の“古代については、朝鮮の影響をもっと突っ込んで戴きたかった”の件は、先の《「軍事ケインズ主義」と「道路ケインズ主義」(3)(「ガソリン税」は「環境税」)》に引用させて頂きましたように、『日本史はこんなに面白い 半籐一利編著』の中で、中西進氏は語っておられたのですから!

 

 

中西

ぼくは、それより前の弥生時代、大和に暮らしていた人々は全員が韓国人だったと思うんです。そのなかでも、蘇我氏がいちばんの代表格としてがんばっていた。そこへ後発の政治勢力として、やはり渡来系の天皇家が入ってきて……。

 

 

 そして、手紙の最後の

「“ああ、日本は、いつまでも、他人の独創に敬意を払わないのだなあ。”と
日頃の自分を反省すると共に、悲しくなりました」

との結語が、この手紙を書いた19871017日と、それから21年ほど経った今も同じ結語と陥ってしまうのです。

(補足:2008108日)
「日亜化学」の皆様!
中村修二氏の独創に敬意を払ってください!

 今年のノーベル物理学賞は、あらゆる物質を形づくる基本粒子の研究で先駆的な理論を提唱し、現代の素粒子物理学の基礎を築いた南部陽一郎氏、益川敏英氏並び小林誠氏の3氏が受賞と発表されました。
(朝日新聞(2008107日)より引用)

 勿論、この3氏の研究に於ける独創性が評価されたわけでとても素晴らしい事と存じますが、私は、青色発光ダイオードの開発者である中村修二氏(現在:カリフォルニア大学サンタバーバラ校教授)の受賞を心待ちしています。

しかし不幸にも、彼がこの研究に従事し成果を挙げた日亜化学とのいざこざ(裁判沙汰)の発生はとても残念なことと存じます。

(この件に関しては拙文《中村教授と日亜化学の悲劇》を訪ねて頂きたく存じます)

 

 この中村氏の青色発光ダイオードの開発も、私の電気に関する従来理論を破棄して、新しい理論の構築執筆した著作『コロンブスの電磁気学』(拙文《『コロンブスの電磁気学』の概略》をご参照下さい)同様に、結果が出てしまえば、“こんな事、直ぐ分かることでたいしたことない!”では済まされかねない業績と存じます。

「コロンブスの卵」なんてどうということではない!と思われるからと、「コロンブスの卵」に敬意を払われる方もございましょう。

「日亜化学」の方々は、前者に属されるが為、中村氏への感謝の気持ちを示されていないのでしょう。

 

 彼が研究していた当時、青色発光ダイオードは「セレン化亜鉛」が世の中の趨勢であって、彼があえて取り組んだ「窒化ガリウム」は見捨てられていた存在であったのに、彼独自の直感でこの「窒化ガリウム」で製品化に漕ぎ着けてしまったのです。

 

 今まで出来なかった製品が一度、出来てしまえば、その後は、いかなる改良発展も容易になります。

 

 従って、せめて「日亜化学」の皆様方は、「コロンブスの卵」に敬意を払う心を持ち、謙虚に中村氏へ敬意を払って頂きたく存じます。

(先の中村氏に関する拙文の一部を、ご参考の為に、下記に再掲させて頂きます)

 

 私が会社の机の上に参考文献を一冊も置かなかったのも、このようなドグマに陥ることを拒否したかったからだ。それが、私の独創性を生み出す方法だと考えたのである。

・・・

 私は、自分の直観に関しては頑固なまでにこだわった。端から見ればどう考えても無体なことだ。会社の上司も同僚も、私が青色発光ダイオードの開発に乗り出すと宣言した時には皆、驚きの声をあげたし、その材料として窒化ガリウムを選択した時には、文字通り関西風にいう「アホと違うか?」という具合だった。

 しかし、実はよくよく考えた結果「自分にはこれしかない」という″勘”がはたらいたのである。そして、これを私は信じた。

 日本では勘や直観に頼るのを、どういうわけか嫌うところがある。理論を話したり理づめに考える人を見ると、この人は大したものだということになってしまうことが多いのではないだろうか。・・・

 

 更に付け加えます。

 

青色発光ダイオードの開発に当たって、多くの研究者がその完成の近くまでいっていると思いながらも完成できなかったのはなぜなのか。完成の近くまできているというその思いは、単に定説や常識の上に立ってそう思い込んでいたに過ぎなかったからだそのため、思いきった方向チェンジができなかったのだ。

 もしも、他の研究者たちが定説にとらわれなければ、近くまでせまっているとは思わなかったかもしれない。そうすれば、きっぱりとセレン化亜鉛の路線を捨てて、私より先に窒化ガリウムの研究に取り組んでいたかもしれないのだ。・・・

 

 ここでの中村氏の記述は、特に新しい物を開発する際の真理だと存じます。

科学に於ける「理論」は、その絶対性は無限の生命を持っているのではなく、常に見直される宿命を背負っているのです。

 

なにしろ、当時の日亜化学に対する世間の認識度が次のようなものだったのですから。

 

実験をやるにあたっては、いろいろな測定装置や備品が必要になる。しかし徳島県の、しかも阿南市などといった田舎都市には、そのような高度な半導体関係の測定装置や備品を置いている会社などない。だから、大都会の会社へ注文しなければならない。そこへ電話してまずカタログを送ってもらうことになるのだが、その段階ですでにつまずくことになる。・・・

 測定装置に限らず、半導体などといった高度なものは、田舎では扱えないとハナから思っているのである。だからカタログ一つ送ってはくれない。所詮は無駄という考えなのだろう。

 私が電話でカタログを注文して、送ってくれたのはわずか二、三割程度だったと思う。……

 ところが、いい気なもので、いったん私が成功したとなると、掌を返したように人が集まってきた。頼みもしないのに嫌という程のカタログが送られてくる。日本中、いや世界中から営業マンが雲霞のごとく押しよせてくるようになったのだ

 日本の企業の悪いところは、ブランド力のあるところは信用するけれども、そうでないところは歯牙にもかけないといった扱いをすることだ。何事もブランドと肩書で判断してしまうのである



目次へ戻る